No. 542015. 04. 09
成人 > 小児

理系のための手指衛生講座(2/3)

奈良県立医科大学感染症センター

笠原 敬

本号は3分割してお届けします。第1回

患者ゾーンを定義する

手指衛生を「いつ」行えばよいのかをわかりやすく明確に説明するのは長い間困難でした。「一処置一手洗い」なる言葉もありましたが、実際に「一処置の始まりと終わり」を定義するのは難しく現実的ではありません。そんな中、2009年にWHOが提唱した”Five moments(ここでは「5つの瞬間」と訳します)”は画期的なコンセプトでした。

このコンセプトは、まず「患者ゾーン patient zone」を定義することから始まります。従来、患者のもつ微生物は患者の体にのみ存在すると考えるのが主流でした。ところが患者ゾーンの考え方は、「患者のもつ微生物は患者の体のみならず、その周辺にも存在する」と考えるものです。入院患者などでは入院期間が長くなるとベッド柵やテーブル、テレビのリモコンなど、身の回りの色々なものを何度も触りますから、患者ゾーンの考え方はとてもリーズナブルですね。患者のもつ微生物はそれぞれ様々ですから、患者ゾーンは患者の数だけ存在することになります。MRSAや多剤耐性緑膿菌の伝播の防止は、患者ゾーンと患者ゾーンの微生物の伝播を阻止することから始まります。

5つの瞬間を2つに分ける

5つの瞬間、皆さん1つひとつ、何も見ずに言うことができますか? 5つの瞬間は大きく2つに分けて考えるとわかりやすくなります。1つは「患者ゾーンに微生物を持ち込まない、持ち出さない」ための手指衛生、もう1つは「患者に感染症を発生させない、医療従事者を守る」ための手指衛生です。数字で覚えてもよいのですが、こちらの図でいえば、「患者ゾーンに微生物を持ち込まない、持ち出さない」ための手指衛生は1、4、5で、「患者に感染症を発生させない、医療従事者を守る」ための手指衛生は2、3ということになります。

この中で特徴的なのは5の「患者環境に触れた後、患者ゾーンを出る時」です。「患者ゾーン」の考え方でいえば、患者の微生物は患者周辺にも存在するわけですから、例えばシーツ交換や環境整備、モニタやアラームを操作しただけで「患者には触っていない」としても、患者が持っているMRSAなどが手指に付着するリスクがあり、その後は手指衛生をしなくてはいけないことになるのです。多職種の教育において特に注意しなければならない点です。

エリアとゾーンの決定的な違いはなんですか?

さてWHOのコンセプトでは、患者ゾーン以外の領域を「医療エリア healthcare area」と呼んでいます。すなわち患者ゾーンは患者ごとに存在し、それぞれ患者ごとの微生物で汚染されている、そして医療エリアは医療従事者や環境の微生物で汚染されていると考え、それぞれの微生物を交叉させないことが重要となります。ここで、なぜ患者ゾーンは患者エリアと呼ばず、あるいは医療エリアは医療ゾーンと呼ばないのだろう、と疑問に思うことになります。もしかして、WHOはわざと「エリア」と「ゾーン」という言葉を使い分けてるの? 同じような疑問は誰でももつらしく、こういう時はやっぱりみんなの味方である「Yahoo!知恵袋」の出番です。

いかがでしょうか? え、クリックしていない? まあそう言わず、一つくらいクリックしてみてくださいよ。2番目の「Area、zoneの意味はどう違うのですか」が比較的わかりやすく説明していると思います。

「zoneはある時間、ある観点から見たときに動的に産み出される範囲」として、例としてバスケットボールの「ゾーンディフェンス」を例に挙げています。つまり患者ゾーンも「動的に移動する」のです。この考え方を理解することはきわめて重要で、「患者が存在すると、患者を中心にしてその周辺に患者ゾーンが出現する」と言い換えるとよりわかりやすいかもしれません(「先生、余計わからなくなりました」と隣の人に言われました)。したがって、患者が病室にいるときは病室が患者ゾーンになりますが、たとえば患者が透析室に行ったり、診察室に行ったり、CTを取りに行ったり、リハビリに行ったりすれば、その周辺はいつでもどこでも「患者ゾーン」になるのです。これと比較して「医療エリア」は動きません。詰め所や処置室、廊下など患者さんが常在しない領域は「医療エリア」と呼び、決して「医療ゾーン」とは呼ばないのです。

「ゾーン」と「エリア」の違い。まさに細かくてどうでもよさそうなことですが、これを理解することが実は手指衛生を正しく実施するうえで、きわめて重要であることがご理解いただけたでしょうか。患者さんを見たときに身にまとう患者ゾーンのオーラが見えるようになれば、一人前だということです。

患者環境に触る前に手指衛生は不要か?

勉強会などでまれに「環境接触後に手指衛生が必要なのはわかりましたが、なぜ環境接触前に手指衛生は不要なのでしょうか?」というキレキレな質問が出ることがあります。「医療エリアの微生物を患者ゾーンの環境に付着させてしまうことになるんじゃないでしょうか?」というわけです。

この辺はWHOも気にしているようで、WHOのFAQサイトにも同じ質問があります。ただしその解説を読んでも、100%腑に落ちる回答ではないように思います。おそらくは手指衛生の重要性の順番に5つ適応を挙げたときに、「環境接触前の手指衛生」は外れてしまったのではないかと思います。しかしFAQの最後には、「環境接触前の手指衛生が必要になることもあるかもしれないので、フィードバックを歓迎します」とあります。要はまず「5つの瞬間」をきっちりと意識し、そのうえで、「私は環境接触前の手指衛生をどうしてもやりたい」という人は、やってもいいのではないか、と私は思います。

実はWHOの手指衛生改善戦略において「5」という数字はとても重要な意味をもっています。なぜ「5」なのか。そしてWHOの手指衛生改善戦略とは何なのか。次回で説明したいと思います。


本稿の着想と作成は、新潟県立六日町病院麻酔科市川高夫医師との長時間にわたるディスカッションが契機となっています。ここに感謝申し上げます。

記事一覧
最新記事
小児 > レビュー
No. 962022. 07. 15
  • あいち小児保健医療総合センター総合診療科
  • 小川 英輝

    はじめに 肺炎を診断したことがない、もしくはその患者の診療に携わったことがない医療者は、ほとんどいないだろう。日本では、年間およそ8~10万人が肺炎で死亡していると推計され、常に死因の上位に位置(死因の第4~5位で推移)している[1]。特に、高齢者医療に携わる方々にとって、肺炎は…続きを読む

    小児 > レビュー
    No. 922021. 11. 08
  • 国立成育医療研究センター 小児内科系専門診療部感染症科
  • 船木 孝則

    本稿は執筆者個人の見解であり、所属機関やIDATENの見解ではないことにご留意ください。 はじめに 2019年12月の中華人民共和国湖北省武漢市を発端とする新型コロナウイルス感染症(coronavirus disease 2019;COVID-19)が世界的大流行(パンデミック)…続きを読む

    小児における血液培養検査
    小児 > レビュー
    No. 872021. 02. 24
  • 国立国際医療研究センター AMR臨床リファレンスセンター
  • 日馬由貴
    小児における血液培養検査

    はじめに COVID-19のパンデミックで成人感染症分野が大変な状況になっている。一方、小児分野ではそれほど大きな問題になっていないのに加え、接触機会の減少や感染対策の普及によりむしろ感染症が激減し、なぜか尿路感染症までもが減少する事態となっている[1]。小児感染症医たちは皆、心…続きを読む